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大黒レストラングループ

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Victoria-TakeAway003.jpg【会社概要】
本社/148 Quay St. Auckland CBD (2008年7月現在)
鉄板焼専門店/3店舗
和食店/3店舗
ラーメン店/1店舗
設立/1989年11月 鉄板焼1号店が街の中心部キーストリートに開店
姉妹店/オーストラリア2店/フィージー 2店/パプア・ニューギニア1店/アメリカ1店

daikoku-teppanyaki-chef.jpg【募集職種】
(1)レストランマネジャー
将来の幹部候補社員としてレストラン運営全般にあたる。
接客。 売上管理。 面接・採用・教育。 シフトスケジュール作成。
仕入れ、原価、人件費等のコスト管理。 施設メインテナンス管理など。

(2)アシスタントマネジャー
旅行客および現地のお客様への接客サービス。
店舗運営全般に渡る店長の業務補佐。
新人スタッフの教育、スケジュール管理などを行う。

(3)キッチンスタッフ(鉄板焼、日本料理、ラーメン)
鉄板焼、和食、居酒屋、ラーメンの各店にて調理全般を行う。
フルタイムの場合、本人の能力等を勘案し将来のHead Chefとして
キッチン・マネジメントにも関わり、新人指導、メニュー考案、
仕入れなどの業務にも携わっていく。

(4)フロアースタッフ
お客様への接客サービス。
将来アシスタントマネジャー、マネジャーとしての登用もあり。

【ビザサポートについて】
能力と実績に応じてサポートします

【応募条件】
常識をもって判断行動できる方。
英語で簡単なコミュニケーションが取れること。
飲食業経験(アルバイトでも)があればなお可

【応募方法】
履歴書(和文・英文いずれでも可)と職務経歴書をEメールに添付の上送付。
info@gekkannz.net (アットマークを半角にしてコピーペーストしてください)
大黒レストラングループ 採用係まで

株式会社SEED-TANK〜編集記事「飲食の戦士たち」

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28歳の青年が、たった一人で1億円近い資金を集め西麻布にレストランをオープンする。
独立を夢見ていても誰もが実現できるわけではない大事を、古里氏は若くしてやってのけた一人だ。
少年時代は野球に熱中し、高校からは現在のベースとなる接客業の楽しさに目覚めのめり込んでいった。
そこには必ず進むべき道を示し指導者となってくれた“師”がいたという。
「独立は周りでサポートしてくれた人たちに対する感謝の表現でもある」。
そう話す古里氏の半生、レストラン経営に対する想いとは…。

seed_profile.jpg株式会社SEED-TANK
代表取締役社長
古里 太志 (ふるさとふとし)
1971年神奈川県茅ヶ崎市生まれ。 東京工芸大学工芸学部建築学科卒業後、グローバルダイニングに入社。「ゼスト」の店長を経て28歳の2000年、西麻布にイタリアンをベースとしたレストラン「Furutoshi」をオープンし独立。翌年には「Pacific Currents」、2005年11月には三井ガーデンホテル銀座に「SKY」をオープンする。現在はレストラン経営のほか、飲食店のプロデュースやサービスに関するコンサルティングも行っている。




「三番、キャッチャー、古里君」。

2歳ずつ違いの男三兄弟の末っ子。

古里氏は親からも兄たちからも可愛がられて育った。大好きな兄たちが所属するのは小学校の野球チーム。自分も野球をやるのは自然なことだった。三番、キャッチャー、キャプテン。高学年になるとすぐ上の兄からキャプテンを引き継ぎ、そのポジションは中学校・高校へと進んでも変ることはなかった。

小学生ですでにリーダーシップや責任について考えるようになったという古里氏には、一つの大きな出会いがある。4年生から卒業までの3年間担任となった熱血女性教師の存在だ。

当時20代後半だったと思われるその女性教師は、クラスの子供全員にスポーツ活動をやらせた。冬も半袖短パンで登校させ、授業前の7時から朝練をさせる。もちろん教師自身もその時間に来て、子供たちの練習を見守ったという。

当然、運動の苦手な子と得意な子がいる。後者である古里氏はそこでもリーダー的役割を任された。「チームプレーとは何?」。古里氏はその女性教師からいつも問いかけられているような気がしたという。単に自分が活躍すればいいというものではなく、できる者が苦手な仲間を守りながら引っ張っていかなければならない。本当のリーダーとは強さと優しさを持ち合わせているもの。小学生にして古里氏は、そんなリーダー像を描き追い続けたという。もちろんその教えは、野球チームのキャプテンをする上でも役立った。

明けても暮れても野球漬けの少年は、小学校を卒業後も地元湘南の中学、高校へと進む。高校は甲子園を目指す強豪チーム。しかし残念ながら県予選の4回戦で破れ古里氏の野球人生は幕を閉じる。新たな出会いは野球から卒業した高校3年生の夏だった。お小遣い欲しさからはじめた居酒屋のアルバイトで、接客業の面白さにのめり込んでいく。



4歳上の副店長が見せてくれた大人の世界

 居酒屋チェーンでアルバイトをはじめた古里氏は、これまでとまったく異なる世界に興味津々だった。なにしろ周りを取り囲むのはすべて大人。そこには仕事の厳しさや楽しさ、遊び方の違いといった同級生との生活では味わえないものがあった。特に経験も価値観も違う4つ歳上の副店長が古里氏を可愛がってくれ、仕事のいろはを教えてくれたのはもちろん、仕事を終えた後の食事も、休日も、その先輩と過ごすようになった。

「大人の世界を知っているという優越感を楽しんでいた」のかもしれないし「有り余ったエネルギーを発散して馬鹿騒ぎすることも楽しかった」のかもしれない。しかし折りに触れて先輩が語り見せてくれた仕事場での姿、接客の在り方に興味と関心を持ち、人を楽しませ喜ばせるサービスという仕事に自分がどっぷりとはまっていくことを感じたという。

進路としては高3から専攻していた理系で大学進学を決めるが、「建築家を目指す道は入学早々に捨てた」というようにアルバイトが優先。もちろん大学には通い続けるが、今度はレストランとしてより欲求の高い人たちが集まる場所で、より上質のサービスを提供する勉強をしようと考えるようになる。そうして移ったのがグローバルダイニングが展開する「ゼスト」だった。




人の能力を引き出す店長との出会い

「ゼスト」を仕切っていたのは24歳の店長だった。しかしとても“たった6歳違い”とは思えぬ魅力を備えていたという。従業員への接し方にも仕事ぶりにも落ち着きがあり、特にその優れたマネジメント力には全社規模での定評があった。古里氏自身も「人の能力を引き出して育てるリーダーとはこういうものか」と実感したという。

古里氏はその店長からバーテンダーに抜擢された。

当時、トムクルーズが主演する「カクテル」という映画がヒットし、「ゼスト」でもカクテルは大人気だった。古里氏は大学1年の時、バイト代で兄と2週間のシアトル旅行をするが、旅先で目についた日本ではまだ馴染みのないお酒を購入しお店に持ち込んだ。それらを使ってオリジナルのカクテルを作っていく。そんな仕事ぶりを店長は喜んでくれ、自由に伸び伸びとやらせてくれた。

「お酒の奥深さにものめり込んだし、そのお酒を楽しむお客様との会話も楽しかった」。古里氏が「ゼスト」の貴重な戦力となったのは、雇用形態や経験年数ではなく本人のやる気を優先して仕事を任せてくれる店長のマネジメントに完全にはまった結果とも言える。 任されるから仕事が楽しく、増々お客様を喜ばせたいと頑張る。店長のマネジメントによる良い成長スパイラルが「この世界で生きていこう」と古里氏を決意させた。

もちろん店舗運営の責任感に満ちた目の前にいる店長が理想像。強さと優しさを持つリーダー。まさに古里氏は小学校時代から折に触れて考え追い続けていたリーダー像を目の当たりにしていたのだった。



関わってきたすべての人が自分をサポートしてくれた

「ピュアに生きてきたんだと思います」。野球もそうだし飲食の仕事もそう。ただ夢中になってのめり込んできただけと、古里氏は自分自身のこれまでを振り返る。しかしそこには「ピュアに生きさせてくれた周りのサポートがあった」という。

実は両親は古里氏が学生の時に離婚している。兄が独立した後は母親と二人暮らしをしていたが、寂しさや苦労を感じたことはなかった。母親の明るさはもちろんだが、家庭を支えるという役目を兄たちが背負ってくれたのだ。「好きに生きなさい」「自分らしく生きなさい」、そんな環境を家族みんなが作ってくれた。バイトで出会った先輩たちもそう。仕事の厳しさを見せるだけでなく、古里氏の良さを愛情を持って引き出しながら「こんな人になりたい、こんな生き方をしたい」というお手本を示してくれた。

グローバルダイニングという会社も独特だった。その当時26の飲食店を展開しており、多くは30代の店長だったが20代の店長も3人ほど活躍していた。若い店長が集まって業績やサービスについて話し合っている姿。人の潜在能力を認めて「やってみなさい」と任せることに賭けている会社。ピュアな古里氏にはたまらなくエキサイティングな場所だった。

大学卒業と同時に、古里氏はグローバルダイニングの正社員を選んだ。そこには目標があったし進むべき道があったからだ。



28歳で独立。スポンサー、家族の金銭的援助一切なし

 大学卒業と同時にグローバルダイニングの正社員になった古里氏は、すぐにその実力を認められ店長となった。独立を現実的に考えていたわけではなかったが、アルバイト時代から続けていた毎月の貯金を継続し、顧客や仲間に人脈を広げていくこと、店舗経営のノウハウを学ぶ事により貪欲になっていった。

「お金を貯める意思があったということは独立を考えていた、ということになるんですが、当時はどちらかと言えば選択できる範囲を広げておきたいという思いでした」。飲食の世界で生きていくという漠然とした状態のうちから、どんな選択をするにしても必ず役立つであろう資金について考え、地道に貯金をしていた古里氏。何不自由なく育ててくれた母親、あらゆる心配事を背負ってくれた兄たちに、これ以上負担をかけたくないという想いがあった。

結局、28歳で独立を決意するが、西麻布のイタリア料理をベースとするレストラン「Furutoshi」のオープンにあたっては9000万円の資金が必要となった。しかし古里氏は、銀行からの融資と自分の貯金だけでそのすべてをカバーする。「人は誰でも周りの期待に応えたいものだ」と古里氏は言う。「Furutoshi」のオープンは、親、兄、先輩、部下…「それまで自分をサポートしてくれたすべての人たちに対する感謝の表現でもあった」という。




SEED-TANK発信で業界を変えていく

 今年、株式会社SEED-TANKには16名の新卒が入社した。みんな明るいが決して派手なタイプではなく、仕事の本質を追求していく真面目さを持っている。「自分がそうしてもらったように愛情を持って育てたい」。この業界は技術で成り立っているという古里氏は、料理・サービスのどちらの道を選んだにしても、すべての社員がスペシャリストを目指していける環境を提供したいと考えている。
また、古里氏は現在の業界の在り方に不満を持っている一人だ。「料理人は定着してきたがサービスのスペシャリストの素晴らしさも、もっと認知されてよいはず」。みんなが憧れるような人材を自社から輩出し、レストランで働く価値を広く知らしめると同時に、収入面などプロとしての在り方を示すことも大切だという。古里氏はSEED-TANKの経営者であるだけでなく業界の変化にもリーダーシップを発揮していこうとしている。「常に考えて行動する」ことをテーマとするSEED-TANKのメンバーは、そんな古里氏の考え方に賛同し入社を決めている。

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株式会社Global kitchen Limited

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kyoya-kitchen.jpg募集職種/ホールスタッフ、シェフ
本社/75 Queen Street, City, Auckland, New Zealand
勤務地/75 Queen Street, City, Auckland, 4 Commerce Street, City, Auckland,
426 Lake Road, Takapuna, Auckland
会社概要/  
【事業内容】「写楽 日本食レストラン」
「居酒屋 源太」「京や 日本食レストラン」
【従業員数】35名(うちアルバイト20名)
【店舗数】3店舗


kyoya-sushi.jpg運営コンセプト
□「食」を通して、ニュージーランドの人々に日本の文化を伝えていくこと。
ご来店頂くお客様のためにも、働くスタッフのためにも日々進化し、
より良いお食事とサービスを提供、追求していき、常に「最高のお店」であることを目指しています。


創業20年以上の歴史を誇る「写楽 日本食レストラン」は、オークランドにある老舗レストランです。
お昼は街の中心で働くニュージーランド人のビジネスマン、夜は家族連れで賑わうお店です。
人気メニューの寿司、刺身、天婦羅などはオークランドでも指折りのものとの評判を頂いております。


「居酒屋 源太」は、2005年に開店以来、オークランド市在住の日本人のお客様たちにご愛用頂いております。深夜2時まで営業ですので残業で遅くなった方や宴会の2次会の場としてもご利用頂いております。
主なメニューは鉄板料理です。オークランド随一とうたわれるお好み焼きが自慢です。
お酒もNZビール、日本の生ビール、日本酒、焼酎、ワイン、カクテル、サワーなどなど豊富に種類を取り揃えています。日本に旅行あるいは仕事などで滞在したことのあるニュージーランド人が日本の居酒屋料理と雰囲気を懐かしみに来られることもあります。


menu.jpgオークランドの北部地区にて10年以上続く「京や 日本食レストラン」は、開店当初よりのお客様や地元に住む家族連れのお客様から多くのご贔屓を頂戴しております。
地元民の中には「日本食=京やレストラン」と思っているほどの熱烈なファンもおられます
ニュージーランド人が主な客層です。


当社は今まで数多くの社員を雇用してきました。
その経験とノウハウにより海外へ移住、海外での勤務などを考えている方へのお手伝い、ビザサポート(ワークビザ、永住権どちらも)も可能です。


私たちと一緒により良いお店を作っていきましょう。


神田 憲二
GLOBAL KITCHEN LTD.
連絡先
info@gekkannz.net
(アットマークを半角にしてコピーペーストしてください)

星の瞬くレストラン 〜ル・マンジュ・トゥ オーナーシェフ 谷昇氏

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プロフィール:
1952年東京都新宿生まれ。六本木「イル・ド・フランス」でフレンチの世界へ。1976年、1989年にフランスに渡り、アルザスの3つ星レストラン「クロコディル」や2つ星レストラン「シリンガー」などで腕を振るう。帰国後「オー・シザーブル」など複数のレストランでシェフを勤め、1994年に「ル・マンジュ・トゥ」のオーナーに。1996年から自らがオーナーシェフとなり現在に至る。

ル・マンジュ・トゥ
ru_tennai.jpg1994年オープンの一軒家スタイルフレンチレストラン。木の扉を開けるとオープンキッチンからシェフが笑顔で迎えてくれる。2階がシンプルで落ち着いた雰囲気の14席のダイニングとなっている。写真はフォワグラと鴨肉のテリーヌ。鴨のもも肉の塩漬けを鴨油で柔らかくなるまで煮込みほぐし、ミンチにした胸肉などと合わせソーセージを作り、さらに鴨油で煮込んだもの。この味に行き着くまで10年の歳月を費やしたという。
ru_ryouri.jpg東京都新宿区納戸町22

“格好つけ”が選んだフランス料理の世界。
コンプレックスとの闘いが始まる。

何も知らない自分、何もできない自分…。東京生まれの格好つけだから絶対人には弱味を見せないんだけれど、これまでの仕事人生の殆どの時間、コンプレックスとの闘いだったと思います。やっと開放されたのは45歳の時。旧知のフランス料理のシェフの一言を聞くまでは、料理人として自分をどう自己納得させるか、毎日必死だったんです。
「お前将来どうするんだ?」。もう蛇に睨まれた蛙状態でした。職業軍人の父の前に正座した僕は、高校卒業を目前にしながらもやりたいことがなかった。友人が言っていたのを思い出して、口からでまかせです。「料理人になりたい」。次の日、調理師学校の願書が机の上に置いてありました(笑)。
調理師専門学校の入学と同時に、六本木の「イル・ド・フランス」でアルバイトをすることになった僕は、本格的にフランス料理の世界で生きていくことを決意します。何しろフランス人シェフが格好いい、フランス語が格好いい。そしてレストランは社交場として完璧な空間が作られていました。当時は東京でもフレンチレストランは20軒ほどしかなく、どこも楽しみ方を知っている大人が集う場所でした。こんな粋な世界があったのか…。
それまで家庭の味しか知らなかった僕は、プロが作り出す料理、レストランという独特の空間、その世界観にはまっていきました。2年間の専門学校との両立を含め6年間「イル・ド・フランス」で働き、パリへ。しかし1976年、24歳での渡仏は挫折の連続でした。何しろ調理場では対応できても生活用語が話せない。ヒューズが飛んでもその状況を伝えるのに一苦労。そんな状態ですから生活そのものがうまくいかない。打ひしがれて日本に帰ってきたんです。東京では一度も感じたことがなかった挫折感。この体験がトラウマのようになり、その後コンプレックスと闘い続けることになります。

過去の挫折がいつも頭のどこかに。
そんな自分を変えた、友人シェフの一言。

再渡仏は37歳の時。複数のレストランでシェフを勤めるなど経験を積み重ねる中で、やはりフランスの2つ星、3つ星レストランといったいわゆるエリート集団の中に身を置いて、そこで戦える自分なのか確認する必要があるだろうと考えたんです。アルザスの「クロコディル」を皮切りに、星のつくレストランを回りました。
この時実感したのは、エリート集団と思っていた世界が意外とそうでもないな、ということ。つまり「歯車としてなら自分は充分にこの世界でやっていける」と認識したんです。しかし料理は自己表現の場です。歯車ではなく“ピンをはれる実力”をつけなければなりません。フランス料理の世界に入って約20年が経ち、様々な店で重要なポジションを任されてはいましたが、僕はこの時点でもまだ形のないコンプレックスを抱えていましたし、それをどう自己消化したらいいかいつも悶々としていたんですね。この世界でこれからもずっと闘っていけるのか。不安は消えることがありませんでした。
それでも人生は続きます(笑)。やっとそれまでの呪縛のようなものから開放される出来事が起こるのは、「ル・マンジュ・トゥ」のオーナーシェフになった翌年のこと。それは古くからの知り合いであるシェフが訪ねくれた時のことでした。「谷さん、同じ匂いがするね」。素朴な人柄と同じボソッとしたつぶやき。22歳から11年間フランスで修行を続け、現在では日本のフランス料理の頂点で仕事をする彼のこの一言を聞いた瞬間、僕はやっと同じ土俵に上がっていたことに気づかされ、長年のコンプレックスが消えていくのを感じました。45歳になっていました。本当に嬉しかった。
僕は料理人は食通である必要はないと思っています。素材単体の味に料理という化学変化を起こすとどういう味になるのか、その情報量をいかに多くインプットしているか、また瞬時に順列組み合わせができるか。それがプロの料理人に必要なことなんだと思います。感性ではなくロジックで勝負する。友人シェフの一言で、その料理人としての在り方は間違いではないと確信できました。

「美味しかった」より「楽しかった」と言われる店。
後者のお客様は必ずまた足を運んでくださいます。

紛争地帯にはないレストラン。つまりレストランは平和の象徴です。そこで仕事ができることに、まず私たちは感謝しなければならないと思います。
そしてレストランは“レ・ストレス”。ストレスを解きほぐす場所ですから、最初は美味しい料理目当てに来てくださるのかもしれませんが、サービス、スタッフとの会話など、一つの箱トータルでお客様に愛されてこそ繁栄すると考えています。食べるため、生きるために必須の場所ではない。だから私たちは頑張らなければいけない。
挫折やコンプレックスと闘ってきた私がこの仕事を続けてこられたのは、会社や先輩とではなく自分自身と闘ってきたからです。現在、店のオープン時間は 18:30でラストオーダーは21:00。それでも店に泊まり込んで仕込みを続ける日常です。遊びもなく常に緊張感から解き放たれることはありません。しかしお客様の期待以上にお応えするためには、このスタイルを崩すわけにはいかないのです。毎日考え、毎日新しいモノを生み出す。その仕事をお客様が楽しみにしてくださっています。頑張っていれば確実にご褒美があります。
間もなくウチの2番手がフランスに行くのですが、彼に会うために週2回通ってくださるお客様がいます。スタッフのサービスに感謝のお手紙をくださるお客様がいます。56歳の私をまだまだ小僧だと叱ってくださるお客様がいます。そういうみなさんに支えられている「ル・マンジュ・トゥ」は、多くのお客様が「今日は本当に楽しかった」と言って帰られる。これこそレストランの醍醐味です。その醍醐味をいつもいつも味わいたくて、今日もお店の屋根裏部屋で睡眠を取ります。


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